1793年、通称ジャコバン憲法と呼ばれる憲法が採択される。これは山岳派の理想が反映された憲法であったが、結局施行されることがなかった。公安委員会を中心にして、最高価格法や革命暦の採用などが行われていった。
1794年2月4日にプリュヴィオーズ16日法を可決し、全フランス領での奴隷制の廃止を決議した。この決議を受けてサン=ドマングの実力者トゥーサン・ルーヴェルチュールはフランスへの帰属を決めた。
派内での対立が深刻になる以前は、マラー、ダントン、ロベスピエールの3人を指して「ジャコバン三巨頭」と呼んだ。
派内急進派。ジャック・ルネ・エベールがリーダー。下層貧民を支持基盤としており、むしろ議会の外に強い勢力を持っていた。しばしば革命政府を「なまぬるい」として非難し、さらなる革命の推進を要求。エベールの発行する新聞『デュシェーヌ親父』を通して民衆の蜂起を促すなど、ロベスピエール派からは危険視され、粛清された。また、汚い野次や根も葉もない告発を行う議員も多く、その点からもロベスピエール派から嫌われる原因となった。
ジャン=バプティスト・クローツらを理論的指導者に、反キリスト教政策を掲げ、「理性の崇拝」を進めたのもこのグループ。アンラージュ(過激派、派外勢力)とも近い。
派内寛容派。ジョルジュ・ダントンを領袖に、カミーユ・デムーランなども有力者のひとりとなった。ジャコバン派の中では最も穏健で、ジロンド派との抗争の際には、彼らとの融和に努めた。ジロンド派、エベール派の処刑と、恐怖政治の過激化に際し、これに寛容な態度を要求。また、フランス革命戦争の停戦などを主張したが、更なる革命の推進をはかるロベスピエール一派によって粛清される。
リーダーであるダントンの人気もあり、民衆への影響力も大きかった。ダントンやデムーランは、個人的にはロベスピエールと親友の関係にあったが、ロベスピエールの側近達は彼らをおそれ、逮捕に踏み切った。
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便宜的に中道派と呼ばれるも、派内闘争に勝ち抜き、最後まで強力な独裁と恐怖政治を進めたグループ。マクシミリアン・ロベスピエールを領袖とし、側近のサン=ジュスト、クートンとの三頭政治を行った(この場合も、この3人を「ジャコバン三頭」と呼ぶことがある)。
急進派のエベール一派、寛容派のダントン一派を粛清した後は、このグループメンバーが公安委員会の椅子をほぼ独占したため、ロベスピエールが提案した法案はほとんどが主だった反対もなく議会を通過、成立した。
しかし、身にやましいことのある議員や、地方で極端な虐殺を行った派遣議員達は、潔癖症とも言うべき独裁三頭からの告発を恐れる様になる。処刑を恐れ、ロベスピエールに反対できなくなっていた多くの議員達であったが、ジョゼフ・フーシェの陰謀により結束した反ロベスピエール派議員たちがテルミドールのクーデタを起こすと、いっせいにこれを支持した。
これによりジャコバン派そのものが崩壊し、元ジャコバン派の議員達も平原派と呼ばれる日和見主義者達のグループに合流し、テルミドール派を形成、革命の振り子を元に戻した。
派内で最も過激なグループ。あまりにも過激なため、一部でしか支持を得られず、また弾圧の対象でもあった。私有財産の廃止を求めるなど、共産主義のルーツとして知られ、フランソワ・ノエル・バブーフ、フィリッポ・ブオナロッティなどがそのメンバーとして挙げられる。
革命中は勢力を誇ることはなかったが、むしろ革命後の19世紀の諸革命でその思想を浸透させ、ジャコバン主義を共産主義へとつないだ。